真珠湾奇襲

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昭和16(1941)年12月7日午後1時30分(現地時間:日本の日付では12月8日)、択捉島・単冠湾を出撃、6千キロもの大航海をしてきた日本海軍の機動部隊から発進した航空兵力と、特殊潜航艇「甲標的」が、アメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイ・オアフ島南岸の真珠湾を攻撃した。ここに、史上例を見ない程の、広大な大平洋を戦場とした日米両国による最大の戦争「大東亜戦争」(太平洋戦争)の幕が切られた。この日本軍による最初の攻撃を、アメリカは「真珠湾奇襲」(スニーク・アタック=騙し討ち)と呼び、"Remember PearlHarbor!!"(真珠湾を忘れるな!!)と言って軍を鼓舞してきた。しかし、日本軍による真珠湾攻撃は、果たして本当にアメリカが喧伝するような奇襲だったのだろうか?実は「奇襲」を掛けてきたのは反対にアメリカの方だったのである。ここではアメリカによる「奇襲」と、そして「騙し討ち」と言われている真珠湾攻撃の真相をを解説する。何故、真珠湾攻撃はアメリカから「真珠湾奇襲」=「騙し討ち」と言われなくてはならないのか?開戦当日、ワシントンの日本大使館が大失態を犯したからである。日本が真珠湾を攻撃したのが12月7日の午後1時30分(現地時間)。しかし、ワシントンの日本大使館がアメリカ側に国交断絶通告(宣戦布告)を届けたのは、真珠湾攻撃から30分後の午後2時だったのである。つまり、「真珠湾攻撃」が先で「宣戦布告」が後となってしまった訳で、これが後々まで「騙し討ち」と言われる事となった所以である。(ちなみに大失態を犯して日本の名に泥を塗った国賊ともいうべき大使館員達は何の裁きも受けず、戦後、高級外務官僚となっている。)つまり、昭和天皇・日本政府・大本営・連合艦隊司令長官(山本五十六)共に、アメリカに対して騙し討ちをしようとは露とも思ってはいなかったということだ。本来、国交断絶通告は12月7日午後1時に届けられる筈であった。外交文書はこの場合、日本から無電で送られた暗号電報を解読し、成文化した上でアメリカ側に届ける。この、国の運命を左右する極めて重要な任務を、ワシントンの大使館員達は赴任する同僚の送別会を優先した結果、処理に遅れを来たし、攻撃よりも後に届ける羽目となった。攻撃が先にあり、あとから「攻撃しますよ」という文書を届けられては、アメリカから騙し討ちと言われても仕方がない。
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