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最近になってようやく、こいつが私の中で只者ではない存在へと昇格していたことを自覚した。ただ、恋慕じゃない。むしろ恐ろしいとさえ思う。だけど、こいつがいなくなったその時、私は私自身の何かを壊されたように泣き叫ぶことになるだろうなと、想像は容易かった。
「手っ取り早く濡れたかったんだ」
「ぁ、違う」
「燕のくせにな。飛べなくなっちゃうよ」
「だから、違う」
「違うってどっち?」
「は、…ぇ、?」
「あ、ううん、いやぁ……ははは」
誤魔化すための笑いがとびきり胡散臭くなる彼を、とりあえずは茶化さないでおいてやる。どっちってどういうことだろう。燕のくせになんて言われた気がするけど、私はもともと、空なんて飛べない。飛びたいとも思わない。
「とりあえずさ、止めない?ずぶ濡れになりたい衝動」
はく、と。
出しかけた言葉が、それ以上の感情に打ち消される。じわじわと顔に熱が集まって行く。目に集中するそれが、感情のどす黒さの反動のように透明な塊になって、ほろりと零れ落ちた。一つ落ちると、それは続けて、何粒も。
「……んん、悪かったよ」
粒をこぼす目を拭うと、呆れの混じった声が上から耳にこぼされ、同時に、ぴちゃりと音を立ててずぶ濡れの私の頭が少し湿っている彼の胸に埋まる。濡れて重みの増した服は、彼の力が加わるとベタリと肌に貼りついて、予想以上の不快感に顔をしかめた。もちろん彼には見えちゃいない。
「でもさぁ燕……」
「黙って」
「はいはい」
「いつもポッポポッポ煩い」
「言ってないし」
「言えば、鳩のくせに」
鳩、と彼を呼んだのは私だ。
燕にすれば、なんて彼が言ったから。じゃああんたは鳩、と私は返した。狐につままれたようなあの顔は一生忘れてやらない。……ところで、鳩と呼び始めてしばらく、こいつの本名を思い出すのは至難の技になってきている気がする。
まぁいいか。きっと向こうも同じ。
「鳩の馬鹿」
ごつんと胸板に頭突きをかませば、からから笑う音が耳に転がって行った。
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