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第一章 5年前の記憶
蝉の鳴き声で耳が痛くなる。
(こんな暑い日に限って、一日中外回りなんて最悪だ……)
そう思いながら、額から流れ出す汗をハンカチで拭うと来栖羽琉-くるすはる-(28)はベンチに腰を下ろした。
大学を卒業後、プロのカメラマンになる夢を捨て、とあるイベント会社に就職した。
それからはサラリーマンとして毎日代わり映えのない日々を過ごしている。
5年前、写真を撮るのをやめてから色々なことがどうでもよくなった。
そんな冷めた自分に諦めながら、過ぎ去って行く日々を淡々と過ごしていた。
『これでいいんだ』と。
そう自分に言い聞かせながら……。
ハンカチを仕舞おうとズボンのポケットに捩じ込んだ手が、固い”何か”に触れた。
その瞬間、羽琉の顔が一瞬歪む。
指先に触れた”何か”をポケットから引っ張り出すと、それを強く握り締めた。
それは大学の卒業旅行以来、いつも肌身離さずもっている銀のプレートが付いたネックレス。
プレートの表面には、右下の端の部分に小さな文字が刻まれている。
もう、何度その文字を目にしてきただろう。
見なくても、どんな文字が刻まれているのかすぐに思い出せる。
<August 15, 2007>
ゆっくりと掌を広げるとプレートに太陽の光が反射して羽琉の目を照らした。
眩しさで思わず目を瞑る。
そして、その度に思い出す。
5年前の夏のことを。
ー 浜辺に君と寝そべり海を見た。
君の寝息が聞こえてくる。
俺はゆっくりと身体を起こし、さっき君から手渡されたネックレスを身に着けた。
そして、君の手をそっと握る。
君が起きないようにそっと……。ー
車のクラクションで現実に引き戻される。
羽琉はネックレスをズボンのポケットに捩じ込むと慌ててベンチから立ち上がった。
腕時計に目をやり、急いでその場を立ち去って行く。
今日も一日、昨日と同じ日々がまた始まる。
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