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スーツに身を包んだ彼を見下ろして、もうコックコートを着る事はないのかと思うと、途端に大きな罪悪感が胸を刺した。
仲違いしていた父親との、最期の会話の機会を奪った罪。
彼の心の支えだった料理の道を寸断させた罪。
全ては津田陽平、お前のせいだと、もう一人の自分が何度も何度も脳内で囁いて。
のし掛かる自責の念に声は懸命に押し殺したが、堪えられなかった水分は頬に一筋の水脈を描いていた。
***
ひと月が過ぎた。
忙殺の日々が過ぎ去って、心身共にようやく落ち着けるようになった頃には桜の花の蕾はとうに開いていた。
厨房の熱も、以前に比べて暑いと感じるようになってきている。
「津田さぁん、桜散っちゃう前に皆でお花見しませんか?」
客の消えた閉店作業の最中、猫なで声で提案したのは三人組のうちの一人だ。
確か『諦めた』と宣言したはずでは、と問い返したくなるほど甘ったるい声質は、どうやら彼女の男性宛デフォルトボイスらしい。
これになびく男がいるんだろうな。
そう思いながら、微塵も食指の動かない自分自身にも呆れつつ、
「そうだねぇ。夕方からなら明日は定休日だしいいんじゃないかな」
津田はモップで床を拭きながら愛想良く笑った。
やがてバイトのスタッフがはけて小一時間が経過すると、津田が居残る店に水上が現れた。
勝手口からのアポ無しの登場は平常運転だ。
「ねぇ、今日の夜に店の皆で花見する事になったんだけど、良かったら水上も来る?」
重ねて予定の時刻と会場を伝えると、一拍置いて渋られる。
難色に見える反応に津田が訳を尋ねると、水上は決まりが悪そうに、どこか羞恥を浮かべ口篭った。
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