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それから─────。
子供のなかった遠縁の老夫婦は、厳しくも優しく惜しみない愛情を与えてくれた。
畑で刈った麦の束を抱えて、共に家路を歩く……そんなささやかな幸福を感じながらも、俺は心のどこかで兄を忘れられずにいた。
そんな折だった。肌身離さず携帯している賢者の石が夜毎に呻き声を発し始めたのだ。
兄を亡くした悲しみを、賢者の石に吸わせたのが悪かったのだろうか…。
病は気からというが、怪異の始まりもまた、やはり気からなのだろう。
きっと、死んだ兄が帰ってくる。
そんな確信があって、私は20を目前に、開業医としての独立を理由に老夫婦の元を離れた。
彼らを、危険な目に遭わせたくなかったがゆえの転居だった。
+++
医師として、研究者としてろくに鏡を見ることがない多忙な日々を過ごすうち…自分はいつしか賢者の石が消えたことさえ気が付かずにいた。
「先生はいつまでも若いね、忙しくしていると歳をとるペースも遅いのかねぇ」
「いやいや、私ももう歳ですよ。今年で56だ」
開業から30年近くの時間が過ぎ去り、人生の折り返し地点も間近という年齢になった私は、患者のある一言がきっかけで数十年ぶりに鏡を見た。
そこには、とても56歳を過ぎているとは思えない中性的な顔がなんとも間抜けな表情で佇んでいた。
「そうだ、あの石がない! どこにしまったんだ?」
デスクに山積みの書類をひっくり返し、抽斗の中身をかき出し、クローゼット、果てには寝床までもをひっくり返して探したが…兄の形見である賢者の石は影も形もなかった。
「これは、どうしたことだ…?」
石がなくなってから、私は五十年近く20代の姿を保ち続け…噂が拡がって二度と同じ場所では暮らせなくなってしまった。
有り余る長い時間の中でその“時代”を過ごすため、人の適正寿命と言われる年数を目安にして定期的に外見を変え、生活の場を移した。
方法は分からないが、賢者の石が同化してしまったとしか考えられなくて、人でなくなることを深く悩んだ結果…私は生国を去った。
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