6話 氷解と真実

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「…ハア、ハア……」 自宅がある4階まで階段を疾走した長谷川は、這う這うの体で玄関扉に施錠すると狭い三和土(たたき)に縺れ込んだ。 ※三和土…コンクリート製の土間。 得体の知れない恐怖に頭の芯が痺れて、じくじくと熱をもつのが分かる。 一体なにが自分をこんなにも怯えさせるのか解らず、靴が片方脱げたまま床を這ってベッドに上がると頭から掛け布団を被った。 どんな生物も、自身の命が失われる時を悟るという。 長谷川もまた、形容しがたいナニカが刻々と迫り来ていて、それが来たら自分は確実に死ぬのだという結末を悟っていた。 「…好きにすればいいわ。どうせ最初(はじめ)から私に居場所なんかなかったんだから……」 吐き捨てるように呟いた瞬間、小暗い部屋を覆う闇が粘度を増してざわめいた。 日没に伴って冷えた空気が、怯えきった骨身に沁みていく。 未だなお蓄積し続ける不安と、襲い来るであろう脅威に対して極限まで張りつめた長谷川にとって、いまや窓を鳴らす風の音すら恐怖だった。 「ふ…っ、ううう。……ううううう…っ」 所詮、無能力者である自分は敗者なのだと長谷川は今更ながら悟って涙する。 [ピンポーーーン…] そんな不安を割くように、唐突にインターフォンが鳴り響いた。 誰が来たのかと不安に押されながらモニターを窺うと、そこに佇んでいたのは職場の上司───隊長の身分を象徴する漆黒の制服を纏った上司・藤咲文音が不機嫌そうな表情で佇んでいた。 なんの用だろうか。もしや、職務放棄をしたことを咎めに来たのだろうか? やや僅かに不安が和らいだのを癪に思いながらも、長谷川はインターフォンの応答ボタンを押した。 「……なん、でしょうか…」 『長谷川さやか、お前に報せだ』 「報せ…?」 『所長より正式に、解雇通告を賜った。今頃はお前を手引きした幹部にも沙汰が下されているだろう』 長谷川は暫く目を瞠ると、やがて悄然と俯いた。 やはり、自分みたいな分不相応な異分子には荷の重い仕事だったのだ。 それも、話をよく聞かずに二つ返事で決めてしまった自分の落ち度でしかない。 「そうですか。…」 『また途中で仕事を抜けたらしいな。説教をしたいところだが…玄関先で話すのは迷惑になるから、とりあえず中に入れてくれないか』 尤もな理由を(のたま)う上司に幾分か緊張がほぐれて、思わず溜息が漏れる。たしかに此処は集合住宅(マンション)なのでモニター越しの会話は近隣に迷惑だ。 「分かりました。いま、開けますんで…」 ふらふらと玄関の鍵を開けようと指先を伸ばした瞬間───唐突(ふい)にスマートフォンが着信を報せた。 【着信:藤咲隊長12件】 「…っ!!」 (…そうだ、そうだった。隊長はいま任務で、1週間前から関東圏を離れている。だから今さっき会った体で話しかけて来たのは、間違いなく彼女ではないっ) 怪異が人を訪う時、身内やごく親しい知古の声を真似るということを思い出して長谷川は身の底から込み上げる悪寒を噛み殺す。 怪異達のまやかしを消し飛ばすように鳴り続けるスマートフォンに“ようやく”我に返った長谷川は、震えながら通話ボタンを押した。 「は、長谷川です…」 「無事か」 「…え?」 「無事か、と訊いているのだが」 「な…なんとか、無事です」 キツい口調は相も変わらずだ。懐かしさが涙になって込み上げてきて、長谷川は鼻をすすりながら涙声で応えた。 「ならばいい。少し前から、下種な怪異どもがお前を付け狙っていたのでな…策を敷いておいたのだ」 「策を…ですか?」 「そうだ。私が帰省土産に配ったキーホルダーだが…」 …そういえば、珍しい色をした羽根を気に入って文庫本の栞にしていたのを思い出して、文庫本の(ページ)を慌てて捲る。 「ありました…」 手探りで引っ張り出した深い青色の羽根は、暗闇の中で(ぼう)っと青白い燐光を帯びて見えた。 「よし、それを使って玄関とベランダに向けて九字をきれ。……できるな長谷川」 「はい…っ、怨魅退散…ヒフミヨ…イムナヤ…コトモチロラネ…シキル、ユヰツワヌ、ソヲタハクメカ、ウオヱニサリヘテ…臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前っ!!」 やはり腐っても結界師・的場一門の血縁である。潜在魔力は僅かながらも持ち合わせていたようだ。 ………カカッ!! しかも、そこに青鬼梟であるソラの魔力が上乗せされたので長谷川を喰わんと集っていた怪異達は一瞬にして焼き払われ塵と化した。 「貴様は…やれば出来るのに、なぜ無能なふりをしていた。…まあいい、一先ずはそれで難は逃れた。これからも確り努めろ」 「……ハハッ。なーんだ、とっくに気付かれてたのか…」 相変わらず素っ気ない激励を残して一方的に通話が切れたあと、長谷川は藤咲の洞察力の鋭さに感服して深い溜め息を吐いたのだった。 ……結界師として無能なふりをしたのは、異能者と判別されたら人並みの生活はまず望めないだろうし、何よりツラい修行をしたくなかったからだ。 まあ今さら本家(いえ)にバレたとしても、正真正銘の跡取りがいるのだから問題はないだろう。 いま漸く、ゆっくりとだが確かに、雁字搦めに身を縛っていた(しがらみ)の糸が焼き切れた。
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