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土方歳三/2
文久3年八月十八日の政変後、新選組へ発足
近藤の右腕として副長に。
10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。
明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。
歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。
その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。
これに対し歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。
新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、
箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。
歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。
その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」
また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっていたが、
島田魁がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」が、土方の辞世と考えられるとの説
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