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「……へえ」
明人の笑みが消えた。
瞬く間に、明人の表情が勇太郎の見たことのないものに塗り潰されていく。先程葉月に向けていたのとはまた違う冷たい瞳で勇太郎を捉えながら、明人は口の端をつり上げた。
「そうくるかぁ……てっきり俺の実家のこととか訊ねてくると思ったのに。それか、否定」
歪んだ口元はそのままに愉快そうに目を細め、異質な笑顔を浮かべる明人。
勇太郎は知らずの内に剣の柄を握る手に力を込めていた。しかし、汗ばんだ手のひらではどんなに力を込めても柄が滑る錯覚に陥ってしまい、よりいっそう焦慮が募る。
「そんな緊張しなくてもいいんじゃない?」
見るからに動揺している勇太郎に明人はくすくすと静かな笑みを浴びせた。
妙に落ち着いたその笑声が、勇太郎と明人を遠ざける。
「はは、ばかみたいだね勇太郎は」
否。口元に手を当てて笑う明人を見て、勇太郎は彼我の距離に変動はないことを悟った。
距離はそのままに、地面を覆っていた砂が風に吹き払われ、それまで隠れていた溝が浮き彫りになっただけだ。
ぽっかりと口を開いた溝は深く、暗く、冷たい。溝に迷い込んだ風が何度も壁にぶつかって反響し、怪物の唸りのような恐ろしい音を奏でている。少しでも動けば足を踏みはずしてしまいそうで、勇太郎は転落を恐れ、明人を目の前にして立ち竦んでしまう。
「ばかな勇太郎に教えてあげるよ」
言葉を切ると、明人は一度だけ目を瞑った。
目蓋がゆっくりと開く。そこでは、見覚えのある明るい瞳が勇太郎を見据えていた。
「俺の名前は、金糸雀明人。絶対正義上級幹部金糸雀(カナリア)家の次期後継者だよ。よろしく」
そう言うと、明人は笑ってみせた。
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