プロローグ

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「あなたがこの森に住むという賢者?」  標高の高い山々が連なる、その中腹、暗緑の帳に隠れるように建つ小さな山小屋に、女の声が響いた。  昼なお暗い密林。山頂には万年雪が積もり、切り立った渓谷を吹きすさぶ寒風は、絶えず悲鳴を上げながら岩肌を削っている。  鋭い嘴と巨大な羽を持った野鳥が、奇妙な鳴き声を上げながら、凍える滝壺の表面を旋回していた。その断崖の合間に、どこからか獣の咆哮が反響する。こだまが別の獣の遠吠えを誘い、幾重にも重なり合っていく。  野生の狼が跋扈するその場所は、とても人が住むようなところではなかった。  従者を外で待たせた女は、一人、小屋の主と対峙していた。  分厚い灰色の外套を着込んだ女は、フードを目深にかぶったまま、戸口に立っていた。 「この森に住んでいるのは事実ですが……賢者というのは、人里の人間が勝手に呼んでいるだけでしょう」  フードの下の赤い唇が発した言葉に、その男は応えた。箱のような窓のない部屋の奥で、全身を黒いローブで覆った男は、顔を上げることもなく、ただ卓の前に座っている。 「私は、何者でもありませんよ」  だがその主張は意に介さず、女は一方的に質疑を重ねた。 「こんな古びた山小屋に、いつから住んでいるのかしら?」 「さぁ……100年か200年か……よく覚えていませんね」  思い出すのも億劫で、男は曖昧に答えた。  だがそれを、女は戯れ言と受け取った。冷笑に近い笑みで、受け流す。
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