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しかし、この老人は何をわけの分からない事を言っているのだろう、と秋人は思った。幾星霜の彼方とか、姫とか、まるで御伽噺の中の台詞みたいだ。
そういえば、古書店から、盗む形になってしまった本の世界に入り込んでしまう少年の物語があったな、と思い出してしまった秋人はいよいよここから逃げ出したくなった。
あの、やっぱり……と出しかけた声を書棚から半身だけ出した店主の笑顔に飲み込み、大きな手のひらに招かれるままに秋人は書店の奥に進んだ。
いや、でも、古書に記録されている記憶を幾星霜の彼方と表現して、売っている本の数々を姫とこの店主は読んでいるのかもしれない。人間が本を選ぶのではなく、本が持ち主を選ぶともいうし、この優しそうな人は、そういう考え方の持ち主なのかもしれない。
不安を紛らわせる為の自分へ向けた言い訳だ。それがわからない程秋人は愚かではない。
書店の奥は、店主の書斎にもなっているようだ。大きな机には本が山と積まれている。ウイスキーやらブランデーの瓶が置かれているが、まさか昼間から飲んでいる訳ではあるまい。一人掛けの大きなソファに腰掛けた店主が、ジッと秋人を覗き込むように見る。
ちょっと照れる。
「あの、僕お金が無くて、その」
「ああ。お気になさらず。あのお方に値段はつけられませんから」
にっこりと微笑んでいるのだが、言っていることは意味が分からない。この男は何者だろう、と秋人は思った。本を沢山読むと頭がおかしくなるのか、とすら考えたくなった。
「ただ、導きに私は従うだけです」
そう言って、男は一冊の、とても薄い、如何にも古そうな本を差し出した。
「緑衣の姫」
その本のタイトルを口に出した秋人に、店主が微笑む。
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