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その青年の名前は月島秋人という。その秋人は、夕暮れの道を一人で歩いている。どうやら学校帰りのようだ。
特別耳目麗しい訳でもない秋人とすれ違う人々は皆一様に彼を振り返っては怪訝そうな表情や、薄気味悪いものを見たような顔をして、そそくさと早足に歩いていってしまう。
秋人はそんな周囲の様子に気がつかない。
秋人はとても楽しそうに歩いている。一人で。
しかし、彼はまるで彼にしか見えない誰か(何か?)が隣にいるかのように、何もない空間ににこにこと話しかけたかと思うと、不満そうな表情を浮かべ、再びにっこりと微笑む、というようにコロコロと表情を変えている。
この秋人が一見すれば、狂ってしまっているかのようにみえる理由について語るのは一先ず置いておいて、この物語の導入の為には、この時より半年ほど遡る、2月の冷たい日本沿岸の太平洋沖海底に暫し時間と視点を移す必要がある。
深海は地球が内に内包するもう一つの宇宙だと、新橋武夫は思う。ちりちりと視界をよぎる白い靄はプランクトンの死骸だ。
時々現れては消える、どこかラブクラフト的な意匠を感じさせる生き物は、新橋を驚かせては、もう一つの世界に胸踊らされた。
新橋は、日本の技術の粋を集めた一人のりの高性能潜水艇「ノーチラス21」の操艇士だ。
彼が深海に潜っているのには訳があった。
少し前の1月の終わりに、ちょうどこの海域で漁をしていた複数の漁船が、海底から燐光が発せられるのを目撃したのだ。それを機に、小規模な地震が発生するようになった。
その奇妙な一連の現象に、日本政府は周辺の海域の調査を決定した。
その一環として、新橋もこうして海底に潜っている訳だ。
まさか、大なまずが目覚めたなんて考えていないだろうな、と潜る前に生物学者から、さる高官になまずは発光現象を起こすかと聞かれたという話を思い出しながら、新橋は思った。
までルルイエに眠っていたクトゥルフが目覚めたという話の方が現実味があるよな。
その想像は、深海で一人潜水艇を操る新橋には不適切な想像だった。ライトを向ける角度を少し変えたら、大蛸のような頭を持つ邪神が深海底に横たわっているかもしれないと考えてしまったのだ。
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