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怖いんだ。
力を手に入れたいと欲するのと同じくらい、僕は強くなることを恐れている。人間をやめてしまうことに怯えている。僕の足がすくんでいるのがその証拠じゃないか。
ちょうど騒ぎを収めるためにミュリエルが出てきたところだった。彼女の完成された美しい顔は、今は煩わしさに歪んでいた。
「ですから魔王様は…」
「ミュウ」
僕は呼んだ。彼女が振り返ると、柔らかい髪から香りが振りまかれるようだった。男に幻を見せる香りだ。
「魔王様?」
「分かったんだ。僕は強くなりたい。でも怖いんだ…」
視線は自然と地面に落ちた。自分の感情を口に出すのは、たぶん初めてだった。もやもやしていた心が楽になっていく。嬉しくて、戸惑って、少し恥ずかしいような気持ちがした。
「だから、」
視線を上げるとミュリエルは温度のない目で僕を見ていた。その瞬間、僕は間違いを悟った。心臓の辺りを流れる血がキィンと冷たくなった。
「……だから、何ですか?」
ミュウ。
そんな目で見るな。見ないでくれ。
僕が耐えきれなくなって目をそらすと、ミュリエルは近づいてきて、そっと僕の顔に触れた。さっきの手とは違う、柔らかく温かい人間の手。
弱くて壊れやすくて、かけがえのない人間の手だ。
「あなたは、魔王様でしょう?」
ミュリエルは耳元で囁いた後、軽く僕の耳を舐めた。思わずびくりと肩が跳ねてしまう。そんな僕の反応に、ミュリエルは少し顔を離して、続けた。
「今日はもう帰って寝るのです。あなたがいると、いつまでもこの場が収まりません。それから、」
彼女はもう僕を見なかった。
「もう二度と浅はかな物言いをしないでください。魔王様」
僕の中の花が枯れた。舐められてスースーする耳が、カサリと乾いた幻聴を捉えた。
【monolog1 fin.】
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