オトシモノ

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目の前の男は小さく肩を揺らしながら、声はしないものの顔をくしゃりとゆがめて笑っていた。 私はそれをポカンと見ていると、男は私の手をとると手のひらに『し ぐ れ』とゆっくり順に指で書いていった。 私は音になら無いとわかっていながらも口を『しぐれ?』と尋ねるように動かすと、男は静かに頷いた。 どうやら彼の名前のようだ。 それに気付き私も彼、しぐれに習うようにしてしぐれの手のひらに『べ に』と書き、彼も私と同じように『べに?』と口を動かし、私はそれに頷いた。 それから私達は少しでも意思疎通を図ろうと、お互い手のひらに字を書きあったが、正確に読みとれるのは精々4文字程度が限界だった。 それ以上書くと、何というか伝言ゲーム状態。 何を伝えたいのか読み取る事の難易度が急に跳ね上がるのだ。 先に諦めたのはしぐれだった。 必死にしぐれが何を書いたのか頭を捻っている私を横目に、しぐれはスタスタと奥へと歩き出したのだ。 十数メートル離れたところで私は置いていかれた事に気付き、慌ててしぐれを追いかけた。 しかし、歩けども視界に入るのは目がくらむほどの白。 言葉が話せない以上無言にならざるを得ない私達は、ひたすらに足を進めた。
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