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自宅にて
「由夏(ゆか)」
八月の朝、静まりかえった部屋に男の声が響く。呼びかけた相手はいつものように彼に背を向けたまま、勉強机に向かってノートに書きものを続けている。
「由夏、聞こえているか。あの事故からもうすぐ一年になる」
男が口を閉ざすと、シャープペンシルを動かすカリカリという音だけが部屋の中を支配する。几帳面に片づいた少女の部屋には、他に物音を立てるものなど何もない。白い壁にはメルカトル図法で描かれた世界地図がかけられ、フローリングの床を天井の蛍光灯が明るく照らしだしている。厚く閉ざされたカーテンにより、室内には日の光が差しこんでこない。しわ一つなく整えられたベッドのサイドテーブルには、ドストエフスキーの文庫本が三冊、表裏も向きもバラバラに積み上げられていた。
男はドアのふちに手をかけ、部屋の中に入るべきかどうか悩んでいた。が、結局いつものように踏み出そうとした足を止め、遠い距離を保ちながら話しかけていた。
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