可哀想な姉

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 私はそこで顔ばかりでなく、心迄がその男と共通のものを持っていたと見えて、その恋人である女優へ、まことにやみがたい恋慕の情を抱きはじめるに至ったのである。  私は姉の眼をぬすんで、ひそかに黒い眼鏡と、黒いつけ髭とを買いととのえた。  そして或る晩私は遂に、その男よりたった一足先廻りをして彼女と会った。  私は毎晩、その男のすべての動作をよく研究して会得していた。私は口笛を軽く吹きながらステッキを振って、ゆっくりと大胆に近づいて行った。女は、そんなに巧みに変装した私にどうして気がつく筈があろう。果して、、彼女は並木の木蔭からいそいそ走り出ると、ニッコリ笑いかけて、優雅な身振りで可愛らしい両手をさしのべた。私は、恥しさと、嬉しさと不安とでぶるぶる慄えた。  目近くに見た彼女は何と云う美しい女であろう! 私は彼女のエメロオドのような瞳に、またもぎ立ての果物のような頬に、また紅い花模様の上衣の下にふくらんだ胸に、私の命を捨てても惜しくはなかった。  私は勇気をふるって、鳶色の木下闇(このしたやみ)で彼女を抱き寄せた。  ――いけないわ。」  彼女は危く私のつけ髭の上へ唇を外らした。  ――ニセ者!」と彼女は私を叱った。  私は、失敗った、と思った。  ――未だ、つけ髭なんかでごまかしているのね。なぜ、ほんものの髭を生やさないの?」  ――姉が、ゆるさないものですから……」と私はどもった。  ――姉さんなんか、捨てておしまいなさいよ。」  ――あなたは、僕の哀れな姉を、御存知ですか?」  ――ほんものの髭が生える迄は、あたしお会い出来ませんわ。」  ――どうぞ!」と私は喘いだ。  ――いや!」  彼女は強か私を振りもぎって立ち去りかけたが、ちょっと足をとめてふり返って、――もしも、髭がほんとに生えたならば、あなたの窓へ、汽車のシグナルみたいな赤い電気をつけてちょうだい。」と云った。そしてまたすたすたと、連なる並木の蔭へ吸い込まれて行った。  私は茫然と立ちつくすのみであった。
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