プロローグ

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すごい嫌だ。もう自主退職してバウンティ・ハンターにでもなろうかと思った。 憲兵隊を志望するほどなので、さすがに初日から辞めるのもどうかと思った真面目な僕はとりあえず挨拶だけでも済ませておこうとドアを開いた。 そして目の前に広がっているのは存外広い空間で、もう取調室くらいの狭さを勝手に想像していた僕は少し面食らった。 中にはソファーと椅子、硝子のテーブルの応接セットが一組。そこらに散乱しているぬいぐるみの山。そして壁中、いや床にまで描かれている色とりどりの落書き。太陽、猫、銃、それらは取り留めのないもので、まるで幼児が描いたもののように邪気がなかった。 そうして彼女は振り返った。この国では珍しい長く、黒い髪がソファに張り付いている。 応接ソファに僕に背を向けて座っていた彼女はドアを開いた犯人を見ようとして、頭を後ろに倒した。何故か高々と掲げられた右手にはレモンケーキを突き刺してるフォークがあった。 「君が新人の……ああ……」 女性にしては存外低い声と、いかにも眠たげに半開きになっている大きな瞳に僕は職務怠慢への怒りを感じる暇もなかった。 「コモン・グッドスピードです。はい。今日からここでお世話になります」 お世話になることを僕は決めたようだった。 「ああ、どうも、私はトーマ。よろしく、まあ、今日は別段することはないから、私はこれ食べたら寝るからね」 と、彼女がレモンケーキのフォークを振ったところで、レモンケーキはフォークの呪縛から逃れることを決意したようだった。薄黄色のケーキはゆっくりと彼女の目の前を通過して床に激突、その固い外殻部分を弾け飛ばしながら、最早食べることのできない何者かに変身を遂げていった。 彼女の名字を知ったのはそれから数週間後のことだった。
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