100人が本棚に入れています
本棚に追加
テレビの前で、智樹はブーツカットのジーンズにジャケットを羽織りながら言った。
「悪い、今日早番だから先に行くわ」
由衣は食器を洗いながら「そうだっけ、わかったー」と智樹を見る。
智樹が玄関に向かう進路を突如変えた。そのまま由衣のもとへ来て寄り添うと、由衣は目を閉じて顎を上げた。
唇に感じる智樹の体温で、昨日から身体に染みついていた緊張が解けてゆく。知らず知らずのうちに智樹の舌を求めて背伸びをすると、「タイム、タイム」と身体を引き剥がされた。
「仕事に行けなくなっちゃうからさ」
「うん、いってらしゃい、気を付けてね」
智樹はそのまま玄関へ向かって、リビングを出て行った。
誰もいない部屋で、夢心地のまま洗い物の続きにとりかかった。
ほんの数秒のキスなのに、身体はもとより指先までもが火照ってしまっている。むずがゆい下半身を、太腿を擦り合わせて誤魔化した。いつしか鼻歌も交じりはじめ、頭の中はシャボンの泡が舞い始める。同じように泡だらけのスポンジを目的もなくただ動かしていると、ふと気づく。
引き扉が、開いてる。
智樹が開けたのかな。
そう考えて記憶を遡ってみるが、智樹が寝室に入る姿は見つからなかった。
手についた泡を洗い流して、引き扉に近づいてみる。
隙間から見える寝室はもちろん明るくて、奥にベッドが見えるだけだ。
カカ。
引き戸の向こうで音がした。
何かを擦り合わせているような、爪が引っかかるような音。
何の音かしら。
扉に手をかけるとまた、
カカカ。
昨夜の記憶が染み出してくる。
「誰も、いないわよね?」由衣の願望が言葉で出た。
それを否定するように、
カカ。
由衣はグッと力を込めて、引き戸を開けた。
陽射しの差し込む部屋には、特に変わったことは見当たらない。
恐る恐る一歩を踏み出すと、
「いっっっったい! 痛い! 痛い!」
由衣は片足を上げて跳ね回った。
「誰よ! こんなところに!」と摘まみ上げた物は赤いゴムバンドで、ピンクのプラスチックのリボンがついている。
まじまじと観察する由衣。
「浮気?」
由衣は少し考えてから「よし、見なかったことにしよう」と頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!