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浜路はさっと井戸に向かい、顔をあらってからすぐに身支度を済ませた。
狩猟で捕った獲物を売りに行くのなら普段の着物で十分なのだが、今回は町の町長への大切な文を届けるため、浜路もそれなりに正装しなければならない。
浜路は神楽の婆の着物を借りて、見せ襟は牡丹の柄がと特徴的なおしゃれなものを着込んだ。
すべて神楽が選んだものだが、牡丹の模様を見るたびにある男の顔がよぎって落ち着かない。
「浜路、よく似合ってるよ。」
「もう、赤ん坊じゃないんだから、一人で着付けぐらいできるのに…」
「年寄りの楽しみを奪うもんじゃないよ。私にはもうもったいない着物だからね。似合う子が上手に着るのが一番だ」
神楽の夫婦には子供がいない。ほしかったが、どうしてもできなかったらしい。
爺が足を悪くしてから婆もその看病につきっきりになったせいで、子供がほしい気持ちも足と一緒に置いてきてしまったとぼやいていた。
浜路が勝手口から出ると、一足先に支度が終わった冥土は、巾着袋を手に提げてからりと笑う。冥土は普段とさして変わらず、着物が少しばかり立派になった程度で、例によって道具箱をしっかり背負っている…と思いきや、冥土の背に道具箱の存在は見受けられず、なんと驚くほどに軽装だった。
「やっと来ましたね。待ちくたびれました。いやはや何とも、馬子にも衣装といった出来栄えではないですか、浜路さん。すっかり見違えましたよ」
むっとして浜路はぶっきらぼうに言い返す。
「嫌みたっぷりな世辞を言われても、ちっとも嬉しくないよ。」
昨日の夜邪険に扱ったことをまだ根に持っているのか。意地悪な物言いをする冥土がいつも以上に憎たらしかった。
と、神楽の婆が浜路と冥土の間に割って入り、急かすように二人を送り出した。
途中振り返ると、いつの間にか爺が手をふっている姿がみえた。あんまり動くと体に悪いので、浜路は歩調を速くした。
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