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「芳ちゃん。お寺のとこにあるあの池、鬼火ヶ池には今日は行ったらあかんえ」
そういえば、と思ってそう背中に向かって声をかけると、兄は振り返って苦笑した。
「心配せんでも緋沙。そんな変なとこ行かんがな」
「ほならええのよ。せやけどな、もし何かあってまかり間違っても絶対行かんとってよ」
「はいはいわかった。わかったわ」
「ほんまにわかったん?」
縫う手を止めて、わかった? を繰り返しながら遂に玄関まで付いてきた妹、その頭をまた撫でてそれから、兄はじっと、自分の手を見る。
分厚い手袋の中指を引っ張って外しかけて、そこで少し考えて、やめた。
「外したかったら外してもかまへん(構わない)のよ、芳ちゃん」
緋沙子は息子を気遣う母親のように優しく芳一に言った。だが彼は首を横に振って、言葉で答える代わりに、少し哀しげに微笑んだ。
それを受けた緋沙子はそれ以上何も言わず、彼を見送った。そしてまた手縫いの仕事に戻る。
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