<プロローグ>

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人の生とは儚いものだ。 それを俺が実感したのは、久しぶりに登校した雨の日だった。 「じゃあ…、早川。この問題の答えは?」 三時間の数学の授業。 もう何度目かになる面白くもない説明を聞いて窓を眺めていると、決して若くはないのに未だに教え方が上達しない教師に指名された。 ゆっくり視線を向けた黒板に描かれていたのは、一次関数の基本問題の図。 仕方がなしに立ち上がると、不意に目眩に襲われた。 力が抜け、立っていられなくなった身体は、重力に従って床に倒れこむ。 起き上がることすら出来ない俺は、ただ呻くしかなかった。 体が強くない俺は時々倒れることはあったが、今回は違う。 吐き気に熱、頭痛は、俺が抵抗できないのをいいことに容赦無く襲ってくる。 「優…!しっか…しろ!!…い!?」 朦朧とする意識の中、最後に見たのは彼奴の泣きかけの顔だった。 ここは、ベットの上だろうか。 真っ暗な何も見えない空間で、保健室とは少し違う慣れ親しんだ薬品の匂いが鼻を刺激する。 倒れてすぐ、俺は病院に運ばれたらしい。 「残念……ら、…真君を…け…ことは…」 聴力はかなり落ちていたが、誰かが話していることは認識できた。 つい昨日聞いたばかりの優しげな声は、抑揚はなく、悲しげだ。 「そ…じゃ…、優…は…」 「…や!!…真!目…開…て!!」 会社を早退したのだろうか。 此方に向けられる父さんと母さんの声は震えている。 「ぐっ……!」 なにかが起こっている、それを理解した瞬間、喉に鋭い痛みを感じた。 それだけではない。 まるで熱湯を注がれたような、熱さ、渇き、苦痛…が次いでやってくる。 器具でも取り付けられているのか、身体中に慣れた違和感を感じているが、それも無意味で。 全身が酸素を求めて呼吸を激しくしても、空気は抜けて行く一方で。 意識を失うまいと必死で抵抗するが、それも無駄のようだ。 思考に白く靄がかかり始た頃、今までの思い出が鮮明に蘇った。 これが、走馬灯だろうか。 死に際はこの世のものではない美しい光景に包まれる、と誰かが教えてくれたが、そんなことはない。 ただ慣れ親しんだ声が俺を呼び、俺もそれに応える、それだけの、だが俺にとっては何よりも大事な思い出が見えた。 死にたくない、そんな俺の思いも虚しく、また意識が朦朧としてくる。 そして何かがが沈んだ。 這い上がることが出来ない程深く、遠くに…
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