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「あの人、どうしたのかな?」
至福の香りただよう、焼き上がったばかりのバタール(フランスパンのひとつ)を棚に陳列していた俺の耳に、カウンターに立つ女の子たちのひそひそ声が聞こえてきた。
ふり返り、彼女たちの視線の先を追った俺は、手にしていたバタール用のタグを思わず床に落としてしまう。
――ああ、うそだろ、引っ越したんじゃなかったのか!
その低い背丈をかがめながら店内の床をきょろきょろと、何か探し物をしている様子のその彼女は、俺がこの一週間、どれだけ忘れよう忘れようと努力をしてきたか――パンを抱える姿がなんとも可憐な、あの。
「来月結婚することに決まったんです。だけど、この人の実家がここよりうんと遠いところにあるから、結婚を機にこの街を離れることになったの。向こうの町も良いところなんですけどね、残念、ここには来られなくなってしまうから……」
こんな素敵なパン屋さんは、きっとどこに行ったって見つかりっこないわ、と婚約者だという男を連れて、本当に残念そうに話してくれたのはつい一週間ほど前で、その言葉とそのツーショットに失恋のショックを嫌でも味わうことになった俺は、それから彼女の姿をぱったりと見なくなったこともあってか、もうすっかり遠くの町とやらに引っ越してしまったのだとばかり思っていた。
でも、今になってよく考えてみれば、たまにカウンターに立つことはあっても、やっぱり俺が表に出ることなんて限られた時間でしかないんだから、俺と彼女が運命的な関係でもない限りは、そうそう出くわすものでもなかったのだ。
ああ、ちゃんと言っておくけど、当然、俺と彼女に運命の赤い糸なんて存在しないのはわかりきっている。
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