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「――ティナさん、来てたのね!」
その声ではっと意識を戻すと、目の前にいたはずの彼女は俺の横をすり抜けて、あいつのもとへ向かっているところだった。
「彼がどうしてもって言うから来ちゃった」
「足、大丈夫なの?」
「もうだいぶ良くなってきたみたい。引きずって歩くのが癖になってきたから、自分でもちょっと困るくらいよ」
「ああ、良かったわ。それでね、見てこれ、あの指輪。この間言ったお店、ご主人がとても親切な方だから、あなたもぜひ相談してみて」
「ええ、ありがとう。考えてみる」
すっかり置いてけぼりをくったかと思えば、彼女は俺たち二人を交互に見てこう続けた。
「ねえ、二人とも、どうぞ上がって」
その言葉に、俺はもう一人の鋭い視線を受けて答える。
「いえ、もう時間も時間ですし、俺たちはこれで失礼します。今さっき聞いたんですが、お引越し、明後日なんだそうですね」
「ええ、実はそうなんです……」
彼女が少しトーンを落として言った。
言うなら今だ、と思った。
もしかしたら、彼女は引越すことになにか未練があるのかもしれない。それで結婚をためらっていたりして……そんなわけはないか。
俺は頭の中でぐるぐるぐるぐる目が回りそうなほど考えて、長くて短い格闘の末に口を開いた。
「――どうか、お幸せに」
ありがとうございます。心から嬉しそうな彼女の返事に、ああこれで良かったんだ、と俺は負け犬ながらにもっともらしく自分を納得させた。これでもう、思い残すことはない。……たぶん。
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