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「頭おかしいんじゃないの!」
その声は古いアパートの廊下に、やたら大きく響いた。私は思わず足を止めた。私のとなりを足早に過ぎ去った女性の長い髪は濡れていた。ああ、まったく。またか。
呆れてため息をつきつつ。私は女性が出てきたであろう部屋のドアの前に立つのだ。
「淡雪(あわゆき)」
チャイムを鳴らし、ついでにこの部屋の主の名前も呼んで。すぐにドアが開いて、疲れたような顔をした男が出てくる。
「やあ、ゆうちゃん。こんにちは」
男、木戸(きど)淡雪は取り繕ったような笑みを口元に浮かべる。少女に見える幼さと女顔が、この男の魅力だと人は言う。私は気持ち悪いと思うけど。
「今、そこで。女の人とすれ違った」
「へえ」
なにげない調子で相づちをうつこの男に少し苛立って、私はあの女性の言葉をまねる。
「頭おかしいんじゃないの」
「勘弁してよ、ゆうちゃん。僕、傷心なんだよ……」
苦しそうに淡雪は顔を歪めるけれど、何が傷心だよと思う。
「自業自得じゃん」
「そうかなあ。僕はそうは思わないけどな。だってさ、みゆきちゃんが僕のためなら死ねるって言うから確かめただけだし……」
あの子はみゆきというのか。今日一番のどうでもいい情報だ。私はもう一度、大きく息を吐く。
「誘導して、無理やり言わせたくせに」
「そんなことないって。ゆうちゃんはさ、僕のこと悪く捉えすぎだよ。僕はただね、訊いただけだよ」
「好きですって言ってくれる女の子に、じゃあ、僕のために死ねるかって訊いて。そんなの、否定できる子がいるわけないじゃん」
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