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【壱】
朝は嫌いだった。
これからまた、長く退屈な一日が始まるかと思うとうんざりする。
だがそれも今日限りになるはずだ。
山肌にせり出した物見露台に鎮座し、十和子は眼下に広がる、みすぼらしい箱庭のような村を見下ろしていた。
肥よくとは言えぬ小さな畑と、古ぼけた合掌造りの家々が点在し、幾人かの老いた村人が大儀そうに井戸水を汲むのが見える。
その鈍重で活力に乏しい動きは、まるでそのままこの村の在りようを示しているようだ。
この村に、若く壮健な年回りの人間は一人としていない。
少なくとも、十和子の生きてきた十六年間では見たことがない。
なんでも、若者はみんなこの山奥の何もない村に耐え切れず、華やかで活気に溢れた外の町に移り住んでしまうらしい。
だが、そんな風に捨てて行った故郷に、彼らは自分が年老いてくると舞い戻ってくる。
それは残り少ない余生を、故郷に存在する神仙の泉の元で静かに送りたいと考えるからだ。
「神仙の泉……」
つぶやいて、村の北側に位置する乳緑色の小さな湖面を見やる。
それは十和湖と言う名があるものの、泉と呼ばれるほど小さな、神の逸話を持つ湖。
かつて十和仙と名乗る神仙がこの村に降り立ち、村に十の和を約束して湖に宿ったとされている。
十の和とは、争い、疫病、飢餓、戦、日照りに水害…後は忘れてしまったが、そういうものに無縁で居られるといった事のようだ。
実際、村にそのような危機的な問題は起きたことがなく、村人は例外なくこの十和神仙を唯一の信仰として崇めている。
それはたとえこの村を出て行ったとしても、心の奥底に根付く寄す処なのかもしれない。
今朝も、箱庭の奥に見える神仙の泉は乳緑色の豊かな水を湛え、孤高の美しさを保っている。
それがかえって、村の侘しさを際立たせているのではといつも思う。
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