2学期・後半

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十何年も前に母さんから伝え聞いただけのその『学校』のことを、親父はよく覚えていた。 カードに書かれたイラストを見てその単語を言う、という練習で、俺はどうしても言えなかったらしい。 その単語――『パンツ』という言葉を。 ちょうど口に含んでいたビールが危うく鼻から漏れそうになって、慌てておしぼりでふさいだ。 親父は肩を震わせて笑っている。 「お前、その絵が何なのか分からないわけでも『パンツ』が発音できないわけでもなくて、ただ恥ずかしくて言えなかったんだよ!」 ゲラゲラと笑いながら、ようやく空になったコップをカウンターの向こうの店員に掲げて「おかわり」と要求する。 会話が聞こえていたのか、親父と同世代くらいの店員はやたらと嬉しそうにニヤつきながら空のコップを受け取った。 『パンツ』が言えない俺に『パンツ』を強要しようとした教師にキレた母さんが、その日の内に『ことばの学校』を辞める手続きをしたらしい。 「元々言語障害ってほどでもなかったしな。集団生活でしゃべることが増えればその内自然に治るだろって」 『パンツ』連呼のくだりが終わり親父の声のトーンが元に戻ると、ようやく人心地がついた。 「事実今は、普通にしゃべってるよ」 「ああ、だからあの時の母さんの判断は、結果的に正しかったと言えるのかもしれない。でもそれは――」 一旦言葉を切り、カウンターから差し出された2杯目の日本酒を受け取る。 そのまま口を付けてしばし口の中で酒を転がしてから、親父は続けた。 「訓練の結果、ではない。ただ日常会話に慣れただけだろう。つまり、日本語に」 ――なるほど。 親父が言わんとしていることが、ここに来てやっと、薄っすらと理解出来てきた。
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