第六話

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第六話

「会長。先に済ませておいた方が良いと思いますが……」  何時の間にか近付いてきていた影と声に幸子の肩がびくりと震えた。 「あぁそうだね。ありがとう」  位間知が言うと、男はそれ以外は何も語らず去っていった。 「いやはや彼はちょっと変わりもんでねぇ」  確かにこの場では珍しい着物姿に総髪という出で立ち。まるで江戸時代あたりからタイムスリップしてきたようだ。 「彼はこの街で居合の道場を開いている、風真 武士【カザマ タケシ】さん。無口な達でね、気を悪くしないでくださいな」  はぁ――と幸子は返した。他に何を言って良いか思い浮かばない。 「でも素敵ですよね。着物の似合う男性って」  安田 鳴海がどこがぴんとのずれてる事を言った。 「さて、実は今風真さんもちらっと言ってたと思いますが皆さんにお願いしたい事がありまして……」  そう言って矢場会長が徐に封筒から何かを取り出した。ほんの先ほどまでそんな封筒は持って無かったと思うが、あの武士という男が渡したのだろうかと幸子は思った。  会長は幸子と鳴海の座るテーブルに、一枚ずつA4判の、文字が印刷された用紙を置いた。 「そちらにも回りましたね?」  柔かな顔で会長が向こう側の新しい住人へ声を掛ける。  どうやら誰かが森脇 久美子と坂下夫妻の席に同じものを置いたようだ。 「あの、これは何でしょうか?」  眉根を軽く寄せながら幸子が問いかける。 「あぁ、町内会への入会書ですよ」  位間知が答えた。 「あ、あの……」  向こう側の席から森脇 久美子が手を上げ言葉を発した。やっと聞けた声はとても弱々しい。  幸子は先程少しだけ視認したぐらいではあったが、発せられた声といい全体的に暗い。着ている服もどこか見窄らしく、向こう側の席の二組みがどこか余所余所しい原因は彼女にあるのでは? と思えたりした。 「これはどうしても入会しなければいけないのでしょうか?」 「それがルールですから」  会長がにべもなく答えた。笑顔も消えている。どうやら質問自体が気にいらなかったらしい。  幸子は夫である勇の言葉を思いだした。この町に越してくる前――あの家を購入する時に聞いた話だ。  そもそもあの家は建売とは言え、かなり格安であった。相場の半額ぐらいだったと思う。それがマイホーム購入を決断するきっかけでもあった。  だが夫はその時不動産屋からある条件を聞かされたという。  それは町内会に入るという事であった。それが唯一の条件でそれさえ呑めればこれだけの格安物件が手に入ると言うのだ。  幸子はその話に特に依存は無かった。元々近所付き合いは大事にしている性分だ。例えこの条件が無かったとしても進められれば入会した事だろう。  だが――と幸子は置かれた用紙に目を通す。  幸子は会員規約と書かれた表記のある部分がどうしても気になってしまった。  ~以下の事項を必ずお守りください。 其の一:町の住人は町内会には必ず入会すること。 其の二:回覧板は必ず決められた期日内に次の家庭へ手渡しで回す事。 其の三:回覧板の内容には必ず目を通す事。 其の四:町内会の行事には必ず参加する事。 其の五:町内会の決定事項には従う事。 町内会長 矢場 伊間知  そして一番下に家族全員分の氏名を記入する欄が設けられていた。  其の一と言う部分に関しては元々話には聞いていたのだが、回覧板を手渡しで回す事など正直これまで聞いた事が無い。其の四と其の五も有無を言わさずといった感じで少し不安を覚えた。 「おやどうしましたか幸子さん?」  一瞬手が止まってしまった幸子を見て会長が声を掛けて来た。だが他の家族を見ても入会には躊躇しているように思える。  すると矢場 井間知は身体を揺らし軽く笑った後。 「皆さん確かに規約としてはこういった事を書いてありますが、あくまで基本的にはそうするよう心掛けて下さいという事です。入会に関してば必須になりますが、それ以外については皆さんの立場も考慮しますので」  会長の言葉に幸子は、はぁ、と言いながら仕方が無いと言った感じに入会書に記入を済ませた。他の家族もそうしたようである。  会長とあの風真と言う男性が、其々の用紙を回収して行く。
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