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一段と強く、風が吹いた。海風にさらわれた麦藁帽子が砂浜を駆けまわった。ふいに漏らした声も、潮騒がかき消していく。
空は高く、うだるように暑い七月の初旬。切り取られ、ぽっかりと穴を広げたような心象風景。
◆
夢を見ていた。夏の日差しを照り返す白砂の上で、時が経つのも忘れて無邪気に駆け回っていた。見上げればコバルト・ブルーの絵の具を撒き散らしたような空には、真綿のような雲が浮かんでいるのだ。
――海は嫌いだ。私は夢を見る度にそう思うようになった。鼻腔をくすぐる、くっとしたレモンの臭いに吐き気を催しながら私は夢から醒めた。先月に買ったおつとめ品の芳香剤の臭いだった。
雑多な生活空間。夢の情景とはどうあっても似つかない六畳一間は、都会の片隅に隔離されてしまったかのように、ひっそりと息をしている。
芸術家を志し、美大に通うために上京してから、早十年が経とうとしていた。油絵の具の臭いと、レモンの芳香剤の香る部屋で、私は何をするでもなく、普通にうだつの上がらない一サラリーマンとして暮らしている。
日々窶れていく感情を押し殺して、一種のルーティンに勤しむ毎日は、慣れてしまえばどうということはない。寧ろこのご時世、職にありつけるだけでも有り難い、と思えば何でも出来た。
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