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「仮に、そうであったとしてもよ」
早織は箸を置いて夏彦を見た。
「いや、仮にじゃない。これは事実だ」
夏彦はビールを飲み干してコップを置いた。
7月4日、木曜日。
天野早織と川縁夏彦は小料理屋で少々、揉めた。
二人は小学校の教員で同僚だった。
「じゃあ、いいわよ。それが事実としても、子供達には、まず夢が必要なの」
「夢を持つ事はいいことだし、短冊に願い事を書いて祈る事も悪いとは言ってない。でも僕は嘘を教えたくない」
「何が嘘なのよ」
「だから織姫と彦星は……ベガとアルタイルは7月7日に近づかないし、その距離は15光年も離れてる。太陽から一番近い恒星ケンタウルス座α星までの距離が4.27光年で、それの何倍も」
「ストップ!」
「えっ?」
「天文の話じゃないの。織姫と彦星の伝説は教訓を含んだラブストーリーなの」
「ラブストーリー?」
「そうよ」
「だけど、小学校低学年の子供達にラブストーリーを教える必要があるのかな?」
「言ったでしょ。そこから学ぶべき、教訓を伝えるの」
「教訓って?」
「女と男は、仕事も生活も助け合って一生懸命に生きて行かないと、天の神様に引き裂かれちゃうの」
その時、店の引き戸がガラリと開いた。
「いらっしゃ……あらっ」
女将の驚いた風な声が聞こえた。
早織と夏彦は入口へ眼をやった。
「済まない……」
五十がらみと思われる男が絞り出すように声を発した。
「あなた……」
「いいかな?」
「ええ。ええ、もちろんよ。おかえりなさい。中へ入って」
女将の明るい声が響いた。
男が後ろ手で引き戸を閉め、遠慮がちにカウンターの隅に座ろうとすると女将の艶っぽい声が、それを制した。
「そこじゃなくて……こっちへ」
女将に手を引かれ、男は奥の小部屋へ入って行った。
どうやら長く姿を消していた旦那が戻ったらしい。
早織と夏彦は顔を見合わせた。
二人の胸に何かが生まれた。
早織が立ち上がる。夏彦も立ち上がった。
早織が伸び上がるようにして夏彦の首に手を回す。
そうして、口づけた。
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