第1話 彼女が傘をささないわけ

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 その朝、玄関を開けると雨が降っていた。地面はぬれ、水たまりに小さな波紋が浮き上がる。 「あれ? 雨だ」  雨は降っているが外は明るい。厚い雲に覆われた憂鬱な雨ではない。 「すぐにやむだろうか?」  しかし、そのまま出かけようとは思えない雨――今は2月。東京が一番寒い時期である。  子供たちが出かけた後の玄関はがらんとしている。  8時には近所の子供たちが迎えに来る。  私が仕事に出かけるのは9時を回ってからだ。玄関には私の靴と妻の靴が置いてある。  妻は私のさらに30分後に家を出る。  傘置きはない。  下駄箱に並べて置いてある収納ケース(電池や工具、玄関マットの替えやガムテープがしまってある)にビニール傘が数本、私が普段使っているコンビニで買った1000円ほどの傘がひっかけてある。私はビニール傘を手にした。 「こんな日は、傘を忘れそうだからな」  風はない。雨はまっすぐ上から下に落ちてくる。  非常に小さな粒で、遠くの空を見ると雨が降っているように見えない。  足元の水たまりを見なければ、雨が降っているとは気づかないほどである。  しかし、ごく近くに焦点を合わせると、雨は確かに降っている。  傘なしでは、いささか心もとないと思えるほど、しっかりと雨は降っていた。  少し錆が目立つようになった玄関のドアは、それらしい音を立てて「ギーィー、バタン」と閉まる。  いつも油をささなきゃと思うのだが、家に帰るころにはすっかり忘れてしまう。  不思議と夜は気にならないのだ。 「いってきます」  それは決して妻に向けて言う言葉ではない。  私の家、私の住家を出るときのまじないみたいなものだ。  『いってきます』と『ただいま』は対になる呪文のようなもので、どちらを忘れてもいけない。  そんなふうに私は思って日々を生きている。 つづく
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