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今から春秋時代の中国に遡ります。
(呉の王)(闔閭→コウリョ)(紀元前515~紀元前496年)に仕えた孫武によって書き記されたのが、後の孫子の兵法書になります。
当時中国は大小含めて120余りの国々が群雄割拠していました。
特に当時有力だったのが、(晋・斉・楚・秦・魯・宋・衛・陳・蔡・曹・鄭・燕・呉)の13ヶ国でした。
紀元前6世紀頃
それらの中に一際台頭して大きな国・呉がありました。
他の強国が黄河流域一帯に居住する中国の正統的な漢民族の流れをくんでいたの対し
呉は蛮族と呼ばれた民衆が暮らす地とされた長江(揚子江)下流の江蘇州一帯を統治した
一新興国であった。
その呉は族長と言う体制だったが、後に
族長である寿夢(ジュム)が王位に就く(紀元前586年)。
その後呉にて王位についた、闔閭。とどまることなく、実力主義を貫いた。
この時他の強国には諸侯・卿・大夫・士・民と言う身分階層が存在し兵士として戦争に参陣を許されたのは士以上の位の人だけだった。
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