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俺は三歳となり、袴着の儀式を終えた。
俺はまだなにも知らなかった。
俺は、母と父のことが好きで、ふたりだけがすべてだった。
外のことなんて知らなかった。
母が時折見せる寂しげなまなざしの意味も、やせ細った手の意味も。
その年の夏、母は里下がりを申し出たという。
だがしかし帝はそれを許さず、母を自分の許へつなぎとめて放さなかった。そうして帝が事の大きさに気づいた時には、もう手遅れだった。
「先には立たぬと誓った。
…そうだろう?
いくらなんでも、余を残して逝けるはずがない。
待ってくれ、逝かないでくれ、桐壷よ…」
そう帝は言ったが、母はついに儚くなってしまった。
俺はなにも知らなかった。
なにも知らぬまま、ただ見ていた。
しかも皮肉にも、今頃になって人々は、母の美しい容姿と、優しい人柄を思い出したのだ。
俺は知っていたのに。
母は、誰よりも美しく、優しく、あたたかい方だった。
「…ははうえ…」
手を伸ばし、白いその手に触れた。
いつもの、母のぬくもりに触れたくて。
しかし、握ったその手は、今はもう、冷たくなっていた。
“雲の上も 涙にかすむ 秋の月
いかで住むらむ 浅茅が宿に”
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