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昨日は雨が降っていたのだろうか。足元の草はところどころに水滴がついていて、一歩一歩足を踏み出すと湿った音をたてる。
私の記憶では昨日、雨は降っていなかった。いや、降っていたといわれれば降っていた気にもならないでもない。人間の「キオク」というものは常に曖昧なものだと思う。
少し薄暗い道を30mほどだろうか、歩いていくとそこで道が途絶えた。
私は立ち止まり、大きく息を吸ってから小さく一歩を踏み出す。
その瞬間、目が開けられないほどのまばゆい光が溢れ、思わず顔を覆った手をゆっくりとおろしてみると、そこには信じられないほど広い草原が広がっていた。
いや、今歩いてきた自分が住む街といい、家と家に挟まれた細い路地からはありえない場所だ。
その広大な草原の真ん中には雄大でかつ寂しげな美しい一本の桜の木が立っている。
そして、その木の下には一人の男が座っていた。
この美しい場所とは対照的で暗く、冷たく、どこか孤独を感じさせるような男だ。
近づいてみるとその男はゆっくりと顔を持ち上げた。
キャシャで細長い体は黒いジャージで覆われ、青白く角ばった顔は無造作に伸ばされた長い前髪でほとんど見えない。ただ、黒く吸い込まれそうな片方の瞳だけがじっとこちらを見つめている。恐れ、威嚇するような鋭い目つきで、でもどこか寂しそうな目をしている。
気がつくと私はそばにしゃがんで、その男の頬に触れていた。
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