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男はふと自分の周囲に視線を巡らせた。
暗い。
濃密な深い闇に囲まれており、一メートル先の地面も目視することは適わない。
しかし見えないスポットライトに照らされているかのように、なぜか自分の身体や足元の硬いコンクリートははっきりと視認できた。
男は鈍重な動作で視線を一点に定めていき、夢遊病者のような足取りで歩き出す。
そこには男と同様にそれ自体が光源かのように輪郭のはっきりした大きな扉があり、そしてその手前には少なくなった白髪の痩せ細り腰の曲がった老人が佇んでいた。
男はその前に立ち止まり、扉を見上げる。
扉は異様な雰囲気を放っていた。
高さ五メートルはあろうかという巨大なその扉には、一面にさまざまな想像上の存在が描かれている。
竜や悪魔や天使のような西洋風のものや、蛇や像と人間が混ざったような容貌の古代の遺跡の壁画のようなもの、河童や鵺などの東洋風のものなど、神、怪物問わず数々の異形の者たちがそこに封じられていた。
そしてそれらが収められた額縁は、赤さびのような色をした憤怒の形相の口を大きく開けた鬼だった。
「これは……」
男は思わずといったように呟く。
ぼろぼろの白い布を纏った老人はその声に反応して男のほうへと疲れたような顔を向けた。
「おや、また人が……。嘆かわしい、嘆かわしい。あんたは、何でまたこんなところになんか来たんだい?」
男はどこか焦点の合っていない目を扉の表面に彷徨わせる。
「私は……新しい世界に行けると聞いて……」
老人は嘆くように重く息を吐き出した。
「そうか……やはり、あんたもか」
「他にも、人が?」
男が問うと、老人は俯くようにうなずいた。
「ああ……たくさん来たよ。今までに、何人も。そしてこの扉をくぐって……それきりだ」
「それは、そうだろう」
男は老人とは反対に何度も、満足げにうなずく。
「今までの腐敗しきった世界から、この彫刻のようなわくわくするような素晴らしい世界に行けるというんだ。戻ってくるわけがない。戻りたいなんて思うわけがない」
「……まあ、戻りたいと思っても無理だがね」
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