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老人は俯いたまま嘆くように首を振る。
「どこへ行こうとも、この世界で見つけられなかったものを見つけることはできないよ。それはきっと、あんたの世界の底に開いた穴から漏れ出してしまっているんだ」
「そんなことはない」
「あんたの理想は、実現することはない。あんたがいくらそれを望んでも、今ここに来るようなことになっている人間に、決して理想など訪れはしないんだよ」
「そんなことはない!」
男は声を荒げ、飛びつくように扉に駆け寄ると、それを一気に押し開けた。
闇ですらない黒が口を開く。
「私は私の理想を求めに行く。そのためにここに来たんだ! 諦めたんじゃない! 逃げたんじゃない! 私は希望を抱いて、ここに……!」
男の顔はまさに鬼の形相へと変容している。それは彼が彼自身の言葉を頑なに思い込もうとしているがゆえだった。
男は瞳を揺らし、涎を垂らしながら笑う。
「新しい世界に……! 理想の世界に……!」
そして扉の向こうの漆黒へと身を投げた。
扉は音もなく男を呑み込み、そして役目を終えると何事もなかったかのように閉じていく。
老人は痩せた顔だけを扉に向け、見送った。
「あんたの目や耳を通して感じるものは、あくまでもあんたの世界でしかないんだ……」
老人は嘆く。
「それは、あんたの頭や考え方も同じ……。新しい世界に行くためには、それらを全部捨て去らなきゃならない……」
鬼の口は、重々しい音を立てて完全に閉じる。
「だから、あんたですらなくなったあんたに、あんたの理想なんてもんがあり続けているわけがないんだよ……」
老人と巨大な扉は濃く深い闇の中、佇んでいる。
「あんたは、あんた自身であったすべてを捨ててしまったんだ。身体も、心も……。あんたの世界は、たった一つしかなかったのにな」
老人の声は闇に溶けて消えていく。
「また一つ……鬼に食われて世界が消えた。嘆かわしい、嘆かわしい……」
―了―
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