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その日の夜、政基は泊まっていった。私は真夜中にふと目覚めて、寝ている彼の裸の背中をそっと撫でる。
オデュッセウス。
ギリシア神話に出てくる英雄。海神ポセイドンの呪いで、トロイア戦争から、故郷になかなか帰ることができなかった男。ふふ。政基の背中を見ていて、こんなことを思い出すなんて。じゃあ私は妻のペネロペね。
そう思った瞬間に、すっかり過去の物になっていた、何かが、私の胸に蘇った。
クローゼットの片隅に長らく放置されていた古いスケッチブックを取り出す。色褪せたそれの後ろ側の真っ白なページを開いた。
何も考えていなかったと思う。側にあった、鉛筆でイメージを紙にぶつけた。こんな感覚は本当に久しぶりで、抑えきれない程の高揚感が私の胸に込み上げてくる。
ああ、描けるかもしれない。
一時間ほど、何枚も描き続けてそう思った。
完全に消え去ったと思っていた、私の情熱が、再び燃え上がる。
政基。
この瞬間に本当の意味で私は悟った。やはり政基でないと私には意味がないのだ。
そんな事をぼんやりと考えていると、後ろから肩を抱かれた。
「政基」
「昔の百合江を見てるみたいだった」
「え? いつから見てたの?」
政基はクツクツと笑う。ああ、なんだかとても居心地がいい。
「そうだなあ。十分か二十分か? こんなこと、あの頃はざらにあった。いつもずっと見てた。それが、俺を不安にさせる事もあったけど、これからは違うから、安心しろ」
政基は、そう言うと、私にキスした。優しくて柔らかくて、そして熱のこもったキスを。
これからの事なんて、分からないけれど、確かな事がある。私は今度ばかりは、どんなにみっともない真似をしようとも、彼から離れてはいけないのだ。
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