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茜は何も言わなかった。ただ、五郎をじっと見た。その目は信じていると言っていた。
吾郎は迷っていた。急すぎる。
しかし、迷っている時間はないのだ。
茜は俺に堂々とすることを望んでいるのだ。
五郎の手を握る茜の手に空いている手を重ねた。
『茜。俺はいつでもこういう時が来るんじゃないかと覚悟してきたつもりだ。そうじゃなきゃ君の思いを受け入れる気にはならなかった。だから・・・』
そこまで言って、吾郎は次の言葉が浮かばなかった。吾郎は茜を愛している。今から茜の家に行ってそれを確認するだけだ。
だが、それがうまくいかなかった時に、俺はどうなるんだ。
茜に父親はいない。
彼女に聞いた話しでは、茜が中学生の時に脳溢血で亡くなっていた。世間では名の通ったホテルに勤務していたということで、それなりの退職金と保険金を残してくれたらしい。茜の母親はそれらを茜の進学の為に使うために手をつけずにいる。そして生活費のために老人ホームの看護のパートをしているはずだ。
その母親が、普通とは違う娘の恋愛を許すだろうか。そうとは思えない。何としてでも、二人を別れさせようとするに違いない。かりに認めてくれたとしても、それは結婚を意味するのだろうか。
俺と、茜が結婚する。吾郎はその可能性を微塵も考えたことがなかった。そして今、その事実に気づいて自分の軽薄さに思い当たった。
『何、先生。続きを言って。私、先生が決めたようにするつもり。』
この恋で吾朗に初めて迷いが生まれていた。
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