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「あら、貴方じゃなきゃダメよ」
夫人の言葉にハッとして、腹に生まれた邪推が一瞬身を潜めた。
「二人ともショパンのピアノにはうっとりするだけで何も言わないんだもの。
どちらかが弾けばああだこうだと議論が始まるものだから…」
「…だそうだ、夫人のご指名なんだから諦めるんだな。
僕らもショパンのピアノが聴きたいし。な、リスト」
「うん、弾いて欲しいな。君が眠ってしまう前に」
ヒラーの目配せに、とりあえずは平然と頷いて笑いながらショパンを見やる。
俺の最後の一言は効果があったらしく、彼はしばし口ごもった。
ショパンの弱い体には、パリの夜は長過ぎるのは間違いないことだ。
「…じゃあ、少しだけ。」
どうやら堪忍したらしい。
ショパンは持っていたグラスをテーブルに置く。
椅子から立ち上がり、サロンの端に据えられたピアノへと足を進めた。
その動作の静けさはまるで羽でも生えているのかと思うほどに
滑らかで、『人間』を感じさせない。
椅子に一度腰を降ろし、高さを確かめる。
ペダルに足を置き、鍵盤におもむろに手を置いた。
高さには不満はないようだが、鍵盤から離れた手は、その栗色の髪に触れる。
頬に掛かった髪を、すっと耳に掛ける指先すら、目を離せなくなる。
決して大きくはない、ショパンの白い手。
再び鍵盤にその手が添えられた時、サロンのシャンデリアはゆっくりと暗くなった。
夫人が使用人に指示したのだろう。
ショパンが弾く時はいつもそうだった。
仄暗い蝋燭の灯りが、ぼんやりとピアノのシルエットとショパンを照らす。
これ以上はないと思ってしまうような静寂に、ショパンの旋律がゆっくりと漂い始めた。
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