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『夜想曲』―――――ノクターン。
ショパンの麗しく、繊細な魅力が発揮される種の曲だ。
『夜想曲』と冠するに相応しく、どこか物憂げで、揺蕩うように無数の音符が流れていく。夕陽も焼け落ちた後の、夜の入り口。
薄紫の雲。
ぽつりぽつりと空を埋め始める星。
夜を連れて来る、風。
そんな夜への想いを雄弁に語るノクターンは、ショパンによってしか成し得ない技だ。
先程まで呆れるほどに喋っていた夫人も、愉快そうに酒を飲んでいたヒラーも、
そして、もちろん俺も、誰も動かず、ショパンの奏でる音色に身を委ねていた。
咳払いも、微かな身動ぎで立つ衣擦れの音さえ、世界を壊してしまいそうだ。
俺の席からはショパンの顔は直接伺い知ることは出来なかった。
鍵盤には目もくれず、虚空に目線を据えている横顔が、壁に掛けてある鏡に映っている。
その横顔に見惚れて、夢中になって鏡に視線を注いでしまう。
ピアノを弾いている時だけではない。
ショパンは普段から、夢想でもしているように視線を宙に留めていることがあった。
俺はそれを見る度、見惚れつつも何か嫉妬にも似た不安を覚える。
それは、そんな時の彼がどんな表情よりも美しいからで、
到底自分ではショパンにこんな顔はさせられないのだと、ぶつける宛ての無い嫉妬心に苛まれるのだ。
何が彼を、人間離れした美しさで彩れるのだろう?
ショパンが多少なりとも俺に気を許し、恋人と言えなくもないような、
曖昧な関係を受け入れてくれてから余計に、気になってしまう。
夢見るような旋律から、零れ落ちる滴のような美しい音の連なりを経て、
夜への昂りを音に乗せるような中間部は、今の俺を焦らせるようだった。
俺達の存在など、今のショパンはきっと忘れているのだろう。
今や、完全に俺とショパンの世界が切り離された感覚が全身を支配していた。
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