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「いけない…ショパンのピアノに聴き惚れてしまいました。 明日は朝から来客があるんです。今夜はこの辺りで失礼します、また誘ってくださいね」 夫人に丁寧に頭を下げてヒラーは続けて俺とショパンにも目配せする。 「ああ、そうなんだ?今日のワインを持ちこさないようにな」 「気を付けて。また、近いうちに。おやすみ」 俺は冗談混じりに、ショパンはにこりと愛想よく笑ってそれぞれ言葉を掛ける。 そろそろ帰ろうとは思っていたが、ここで一斉に帰ることはないだろうと、俺もショパンも同じように考えているようだった。 「まぁ!さっきいらしたばかりだと思っていたのに…。馬車はありまして?下までお送りするわ」 夫人はいそいそと立ち上がって大袈裟に残念そうにすると、 使用人に何をか言いつけながらヒラーを伴ってサロンを出て行った。 先程とは違う静寂がサロンに漂う。 ショパンは俺を見ない。二人が出て行ったドアを見ている振りをしている。 俺がおもむろに立ち上がれば、ようやくショパンはこちらを見た。 「…君も、帰るのかい?」 「……いや…」 珍しくショパンから口を開く。ゆっくり首を振ると、そう、と短く返って来た。 2人分の容量が抜け落ちたサロンは、無駄に広く感ぜられ、俺とショパンの間には果てしない距離が横たわっている錯覚に陥る。 今更になって、彼の演奏に何も言えなかった自分が責められた。 ふと脳裏にノクターンが蘇った。 あの中間部で感じた焦りが再び湧き上がって、俺はゆっくりショパンとの距離を詰めるように歩み寄る。 ショパンは戸惑ったような顔をするも、その場を動かずに俺の様子を窺っている。
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