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ヴァーサス・ダイオウイカ
その日。犬咬詩戸(イヌガミ シド)は、『本物』に出会った。
町の中心に堂々と聳え立つモニュメント、商業の繁盛と海の豊穣を司る守り神『イカゲソ神』の神々しい御姿にも臆さず、その少女は不敵に笑っていた。
「ついに追い詰めたぞ、イカゲソ神。この右目と共に奪われし我が記憶、返してもらおう!!」
ガーゼの眼帯で覆った右目を押さえる動作はいかにも芝居がかっている。何処で手に入れたものか、この暑いのに足元まであるショッキングピンクのローブを着込み、白いニーソの下にレモンイエローとのハイカットシューズいう、それはまあ奇抜な格好である。
だだからこそ、咬詩戸は彼その少女ら目が離せなかった。
ほんの一瞬、気の迷いに違いないが、周囲から降り注ぐ奇異の視線を強靭な意思の剣でひとつ残らず叩き伏せ、一歩も退かずに自分の生き方を貫き通す彼女の姿が、高さ10メートルものイカゲソ神さえ霞んで見えるほどに気高く、美しく見えた。
「我の左手に立ち上がれ、……憤怒の炎!!」
取り出されたのは紫キャベツだった。刹那も置かず投げ撃たれた紫キャベツが悲惨な音と共にイカゲソ神へ炸裂する。次に取り出されたのは『悲壮なる白銀球』改め生卵だった。割れると同時に悪臭が鼻を突いた。腐っている。いったいあのローブの中はどうなっているのか。トマトがぶつかるなりべチャリと張り付く。芯まで傷んでいる。バナナの皮、バナナの皮、バナナの皮。おそらくひと房分。魚の骨、空き缶、鍋、フライパン。もはや不法投棄。最後には『あらゆる虚無を凝集せし闇の巨塊』つまり燃えるゴミが袋ごと投げつけられて中身をぶちまけた。
どっから出した。
ピイイイィィッ!!
甲高い笛の音がけたたましく響いた。路地から飛び出した警官服の男が、その少女へ向けて全力疾走を開始する。
「そこ!! 何をしている!!」
びくりと肩を震わせた少女はひらりと踵を返しざま、あわあわと覚束ない手つきでローブのフードを目深く被る。そしてこちらも全力疾走するかと思いきや、ぺたぺたとアヒルのように情けない足取りで走り出した。
いや、これが全力疾走なのだろう、どうやら運動神経はあまり良くないらしい、などと迂遠な思考は刹那の間に空の向こうへ昇華する。
犬咬詩戸の鼓動は、高鳴っていた。
ひらひらと情けないほど鈍臭く揺れるローブの裾を追いかけて、犬咬詩戸もアスファルトを蹴っていた。
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