月下天昇

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 ――――月が、見ている――――  大内裏へとまっすぐに伸びる朱雀大路の延長線上に、月はおおきく鎮座していた。  獣も寝静まる丑三つ時。幾億もの星々が降らす柔らかな光の下で、“それ”は確実に蠢いていた。 「や……めろ、やめて……やめてくださ……!」  町外れの、弓なりにかかった橋の下。孫でもいそうな年の、足腰すらままならぬ爺がすっかり腰を抜かして小便を土に染み込ませながら、必死に嘆願している。がたがたと子犬のように震えながら、現実からせめて視線をそらそうと腕で顔を覆っていた。  醜い。  何もかもが、醜い。  月光を背にした背の高い男が、刀を振り上げた形のままその動きを止めた。しかしそれは爺に同情心を抱いたり、これから行うことへの躊躇などでは微塵もなかった。  醜かった。必死に許しを請い願う姿も、殺さないでくれと震える表情も、そしてそんな爺を殺さねばならぬ自分自身も。  この爺に一体、何の罪があったというのだろう。包丁を握ることすら出来なさそうな無害な爺に、一体、何が。  だが、それは殺める側にとっては些末なこと。 『命令を』  凝り固まった呪詛のように、同じ言葉だけが脳内を支配する。 『命令を。実行、しろ』 「――はい。主上」  酷薄そうな薄い唇から、吐息と共に漏れた言葉を爺が聞いた瞬間――  ためらいもなく、刀が振り下ろされた。  血飛沫が舞う。血液は粒となって夜空に吹き上がり、雨のように男の全身を叩きながら朱に染めていった。辺りには一瞬にして生臭い、くらりと酔うような血のにおいが充満し、そしてすぐにそれも麻痺していく。ぬるりと手元が滑ることだけが唯一気になったが、それも傍を流れる川に頭からばしゃりと倒れ込めば気にもならない。  ようやく春の息吹が感じられる頃の川の水は冷たく、流れも速く、荒々しかった。でもそれが男にとっては心地良かった。ただ流されるまま、このまま息が止まっても、いや、息など、このまま止まってしまえば――  ただ――月だけが、それを見ていた。
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