雨催い

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 男――月紅(げっこう)と呼ばれた美丈夫は、それでようやくよろよろと身を起こした。急に彼が動くものだから、巫女の少女は反射的に手を放してしまう。月紅の長い長い黒髪がぬるぬると動き、まるでそれだけが別の生き物のように妖しかった。 「俺は、殺した。それで充分だろう」  なんと……鋭く、冷たい瞳だろう。  ようやく開いた瞼だったが、少女はその目に見つめられた瞬間、この男を起こしたことを後悔した。宵闇の獣、血に飢えた妖怪。一片の感情も込められていない漆黒の瞳は底知れぬ井戸の底のようで、見ているだけで呑み込まれてしまいそう。  少女が見て来たどの殿上人よりも華やかで美しい顔立ちのくせに、その顔に生気の色は薄い。絵に描いたような美しさのくせに、今にも消え去ってしまいそうだ。  少女が呆然とする傍らで、月紅はずぶぬれの黒い着物を引きながらどこぞへと歩き出す。数歩先で月紅の背が小さくなると、少女はようやく呪縛から解き放たれたように立ち上がり、その背を慌てて追った。 「ま……待て! 話は終わっていない!」 「話なら俺の平屋でも出来るだろう。人に聞かせて良い話か」  草履もはかずに砂利へびちゃびちゃと濡れた足跡を残す月紅の後を、舌打ちしたい気持ちを抑え込みながら少女は追いかける。確かに彼の言う通りだ。これ以上は、人の目があるかもしれないここでするのはまずい。  月紅は八条大路を西寺とは反対側の方向へと歩き、町の隅へとひたすら向かう。可憐なる巫女と、ずぶぬれで刀を履いた男という異様に目立つ二人は町行く住民達にじろじろと好奇の眼差しに晒され、少女はひどく居心地の悪い思いをした。  半刻ほど歩き続け、ようやく町外れのぼろ平屋を見つけた。家の壁には穴が開き、戸と呼べるものもない。床板は今にも抜け落ちそうだし、天井と思しき頭上からは所々陽の光が入り込んでいた。  それでも家を持てるだけ、月紅は良いのかもしれない。ここにくるまでの短い道のりで、路上にいくつ骸が転がっていたことだろう。屎尿のにおいはすでに慣れてしまったとはいえ、気持ちの良いものではないし、行き倒れた者を喰らう野犬も見ていて気分が悪い。それがこの平安京というものだと分かってはいても、鬱々とした気持ちを抑えられるものではない。
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