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薄暗く湿ったトンネルを通り抜けながら、俺は自分の記憶が書き換えられていくのを感じていた。こちら側の同僚の名前や顔、自分がどこの部署に勤めていたのかなど、どんどん消され、新しい記憶に書き換えられた。
そして、トンネルを抜け、こちら側に着いた時、俺はあちら側の記憶がすっかり、こちら側に書き換えられていた。
古びたトンネルをあとにして、県道に出ると、一斉にフラッシュが俺の方に向けてたかれた。
「たった今、あちら側から戻ってきました!初です!人類史上、初めてこちら側に戻ってこれた人間です!」
マスコミが熱狂する中、俺は待っていてくれた、こちら側のS社の社長と固い握手を交わした。
「よくぞ。戻ってきてくれた。君のおかげで、向こうの社会情勢が分かり、我が社も、あちら側のように事業に失敗することなく大きく発展することができた。全ては、君のおかげだ」
大勢のカメラが見ている前で、社長は仰々しく泣いた。
「お帰りなさい」
と、社長の後ろから、愛する妻が涙を浮かべながら、花束を持ち立っていた。
花束、なんかより、今、俺は君を抱きしめたかった。
公衆の面前であることを忘れて、俺は妻を抱きしめた。周りから、囃し立てる声が聞こえていたが、そんなのはどうでもよかった。
「・・・あ、ごめん」
俺は、あちら側から持たされた小型カメラと指令書のことを思い出した。カメラを通して、この光景を見ているあちら側の社長はどう思っているのだろうか。唖然としているのか、それとも悔しがっているのか。
まさか、俺がこちら側から、あちら側に産業スパイとしてやってきた人間であったとは思わなかっただろう。気付かなかったのも無理はない。俺の記憶も存在はあちら側に書き換えられていたのだから。戻ってくる、今まですっかり、忘れていた。
俺は小型カメラを叩き壊し、指令書も破り捨てると、愛する妻と一緒に、不景気なあちら側とは違い、確実な幸せが約束された社会へと帰っていくのだった。
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