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「いいよ」
「え?」
切れ長の鋭い瞳が、真っ直ぐ私を捕らえる。
「俺が何もかも忘れさせてやるよ」
陳腐で気障な台詞。
バカな女が騙されてしまう男の常套句。
だけど、今日の私には…その言葉は大きく響いた。
ネオンが瞬く夜の街。止まらない人波。
まるでそこだけ時間が止まったように、二人は挑むような視線を逸らすことなく交わしていた。
「…ホントに忘れさせてくれるの?」
「お望みとあらば」
不敵に笑う男。
大人なのか子供なのか解らない、独特な雰囲気。
妖しく、無邪気で、年齢不詳。名前も何も知らない。
でも、それでいい。いや、逆にそれがいい。
今夜だけでいい。
ただ、何もかも忘れさせてくれるのなら。
私は男に近付き、彼の大きな手をギュッと握った。
「じゃあ、私を泣かせて」
欠けた月が私を狂わす。
これが、あの夜の始まりだった。
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