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潮騒。まだ聞こえている。海はもう、彼方へと遠ざかってしまったのに、波の音が、いつまでも耳のなかで揺れている。まぼろしの波の音。私の耳のなかには、まぼろしの海がある。たくさんの生命が、揺れている。私の耳のなかで、息をとめたマッコウクジラが、深く深く潜っていく。そのうしろ姿を消えゆくまでながめて、こんどは水面のほうを振り仰げば、夏の日差しが波と波のあいだを切り抜けて、リュウグウノツカイの、くねくねとのたくる体を、銀色に輝かせている。そうして昼が終わり、夜がやってくると、幾多の珊瑚が、私の耳のなかの、まぼろしの海を、彼らのたまごで覆いつくす。
それだけではない。ほんとうの海のなかでは、すでに死に絶えていった生き物たちの姿を見とめることだってある。ほら、いまちょうど、7000万年も前に、ほんとうの海のなかで暮らしていた、アーケロンという、とても大きなウミガメが、まるで空を飛ぶみたいに、鰭をはためかせて通りすぎてゆく。そして、向こうからやってくるのは、もっとむかし、5億年も前に、ほんとうの海のなかを我がもの顔で泳いでいた、アノマロカリスという動物だ。彼は「anomalo- (奇妙な) + caris (エビ)」と名づけられたが、じつはエビの仲間ではない。まぼろしの海のなかでは、アノマロカリスとエビの仲間が、ばったり出会うこともあるから、そのときによく観察してみればいい。お互いに、ずいぶんと異なった格好をしていることがわかるだろう。
鳴りやまない潮騒。生き物たちの律動。私の耳のなかに広がる、まぼろしの海のなかで、数え切れないほどの心臓たちが、血液を送り出すために、不断に震えている。そのうちのひとつに、とても懐かしい響きを感じる。私は私の耳のなかからあふれてくる、まぼろしの海へ、どっぷりと体をひたし、その懐かしい響きのするほうへと、泳ぎはじめる。
私はまぼろしの海を三日三晩泳ぎ続けて、その懐かしく響く心臓をもった生き物の、姿を目にする。
まだ、元気だったころの父の姿を目にする。
その皮膚に守られたからだの内側から、懐かしい心臓の音が、響いている。海が好きだった父の心臓の音。このまぼろしの海のなかでは、まだ快活に響いている。
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