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幼いころの記憶が、波間にただよっている。
「五つ数えるから、そのあいだだけ息を止めているんだよ。そして、海のお友達にご挨拶するんだよ」と言って、父は、小さな私をその胸のうちに抱き、ゆっくりとふたりの体を海のなかに沈めていった。父にいざなわれて、私ははじめて海のなかへと潜り、それはとても短い時間だったけど、海の律動、海の生き物たちの心臓の音を聞いた。
そして、ほんとうの海のなかで、ずっと昔から放たれていた生き物たちの音のすべてが、いまは、私の耳のなかの、まぼろしの海で、響き合っている。
海が好きだった父もまた、いまは私の耳のなかの、まぼろしの海で、心臓を、ふるわせている。
いまもほんとうの海のなかで、心臓をふるわせている生き物たちと、いまは心臓をふるわせていない生き物たちと、私の父、そのすべての生き物の律動が、私の耳のなかで、潮騒となって鳴りつづけていた。
その音が、だんだんと小さくなっていく。
そして、私は唐突に目覚める。目じりが、かさかさする。眠っているあいだに、すこし泣いていたのかもしれない。私の耳のなかにひろがっていた、まぼろしの海の水が、目まで流れていって、そこからこぼれたのかもしれない。
潮騒はもう聞こえていない。
私はゆっくりと起き上がる。いまだ微睡みのなかにある、私の体に言い聞かせるように、つぶやく。
「今日は、ほんとうの海を見にいこう」
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