第1話

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 私は急ぎ足で歯科に向かっていた。いつもの浮かれた気持はない。何十年かぶりに襲った歯痛に耐えていた。なごんだ海に大津波が押し寄せるように、痛みは唐突に始まり、その後は時計の正確さで繰り返しやって来た。脳が発光するほどの激痛は、久しぶりだ。  歯科街は歓楽の場となっている。かつては歯の治療が中心だったが、その後予防のためのメンテナンスが話題となり、月に一度は口の中を点検することが定着した。私が治療に通っていた歯科医院も今では歯科街に移り、個性的な看護技師をそろえていた。歯にレリーフを彫る新しいサービスが、ちょっとしたプームだ。  よく会う四十歳前後の男性を見つけ、私はほっとした。彼は微笑んでいる私に気付き、口のなかを覗かれたように赤面した。思わず私の顔も火照った。いつの間にか歯科は、少年少女の身体加工の場になろうとしていた。レリーフを彫るチューンという音がかすかに聞こえてくる。  「また会いましたね」「いやあ、今日は治療です。朝起きたら口の中が血の海に なっていまして。血が練りミルクのように甘かった」「私も突然の歯痛に襲われまして。今どき歯科に治療に来る人は少ないでしょうね」「歯科街は、すっかり歓楽の場所になりましたからね」「しかし、ここの先生は昔から知っているので」「お目当ての看護婦さんもいるのでしょう。口の中を掃除される快感は、病みつきになりますね」  1時間ほどして、私は治療の間に通された。しばらく来ないうちに仮想空間の雰囲気がすっかり変わった。草原にベッドが置かれている。群青色の空が広がり、形を変えた雲たちが清々しく通りすぎる。ベッドに横になり空を見つめていると、何のためにここに来たのかを忘れそうだ。  「治療とは珍しい」「歯痛は神経を敏感にしますね」「メンテナンスが定着したので歯痛はまれになったが、このところ歯茎の異常が多いな」「周りにも急に増えたように思います」「少し待ってください。昔の歯とフォログラムを比較していますから」「この空は飽きません」  「結果が出ました」。私はうたた寝していたようだ。「不思議だな。貴方の奥歯は、表面にはほとんど穴がないのに、内部に大きな空洞がある。神経がむき出しになっている」「内部が空洞。まるで繭のようですね」「確かに空の繭に似ている。いったい何が這い出したのだろう」。身体が、かすかに浮いた。
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