世界渡りの殺し屋

7/30
前へ
/62ページ
次へ
2.  うらぶれた雑居ビルの階段を昇り、無駄に豪華な装飾の扉を開ける。相変わらず中は閑古鳥が――ってわけでもなく、店の規模に相応しい喧騒に包まれていた。  耳に心地良い小夜曲を聞きながらカウンターに向かうと、パリッとした黒のスーツに、つややかな黒髪が目に留まる。私はその、ホスト調の男の隣に遠慮なく座り、グラスを磨いていたバーテンに向かって軽く手を上げた。 「はぁい、マスター」 「おや、これは多野本(たのもと)様。お久しぶりでございますね」  多野本は私の偽名。ここは私みたいな殺し屋だけじゃなく、各組織のエージェントもよく訪れる。言うなれば悪の社交場と言ってもいい。  でも名前は麟那のまま。“八割の嘘に、二割の真実”――裏社会では基本中の基本だ。 「ええ、お久しぶり。少しばかり旅行に行っていたのよ」  薄汚いビルの中に存在するとは思えない程の高級バー『アレクサンドリア』。ここに通うようになって、約半年になる。 「左様でございましたか。それで、本日は如何様になさいますか」 「バカルディ・ロンにミックスパエリャの大盛、フラメンカ・エッグ。それとタコのマリネも頂戴な」 「かしこまりました。それでは、暫くお待ちくださいませ」  このバーは酒も中々のものだけれど、腕の良い調理人が厨房にいて、自慢の料理で私達を楽しませてくれる。バカルディ・ロンのボトルとグラスを私の前に置き、オーダーを伝えにマスターが奥に消えると、私は横でマティーニをやっている男の手を目掛けて、指でコインを弾いた。放られたコインはカウンターでくるくると回っていた途中で、ハッシと男の手に収められる。 「時間よ」  切れ長の目。整った顔に誂えたような黒の双眸が、私を射抜く。優男風でありながらその実、猛禽の爪を内に隠す危険な男。 「晩上好(ワンシャンハオ)、麟那。今更言っても仕方のない事ですが、このような場所に来てラムを頼むのは、貴女くらいなものですよ……。それと毎回ここで食べる晩飯は、いったいその細い身体のどこに入っていっているのですか?」  呆れたように言って、喬司はプラスチックの楊枝に刺さっているオリーブを齧った。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加