世界渡りの殺し屋

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 腕時計をちらりと見た喬司は、一万円札をカウンターに置いて立ち上がり、しかし私は身支度を整えようとしたその手を掴んだ。目を瞬かせる喬司を節目に、金栗色のウェーブを彼の、長く細い指に巻きつける。獲物を前にした絡新婦のように。 「麟那?」 「やっぱり、定石を外れた条件ですものね。先払いくらいあっても、罰は当たらないんじゃない?」  目を細めて、自分の髪を巻きつけたままの指に軽くキスをする。数回は身体を重ねてきた関係だ。意図を察した喬司は濡れ烏羽の後ろ髪を柔和に掻いて、降参するかのように手をひらひらさせた。 「なるほど。その蠱惑的なドレスといい、今日の貴女は女郎蜘蛛なのですね。しかし、妹君が待っているのではないですか?」 「あの子なら、強烈な出迎えをくれた後、夕飯時まではしゃいで、ご飯を食べたらそのまま寝ちゃったわ。今はもう、夢の中」  おかげで今もまだ、お腹が痛い。パエリャのお代わりを頼む気すら起きない。 「それは何と言いますか……ご愁傷様です。――まっ、私の気分も満更ではありませんし、妖毒の巣に敢えて飛び込むのも、また一興でしょう。お付き合いさせていただきますよ、麟那」 「ええ――」  今頃アルコールが回ってきたのか、ふうわりと身体が宙に浮く感覚に捕われる。私はカウンターに一万円札を二枚置き、青いワンピースドレスの裾を掃って立ち上がった。 「それじゃマスター、ご馳走様。今日も美味しかったわ。お代はここに置いていくわね。お釣りはチップとして取っておいて」 「いつもありがとうございます、多野本様、栂様。またのお越しを、心よりお待ちしております」  そんなマスターの嬉しそうな声を聞きながら、私達は『アレクサンドリア』を後にする。  喧騒が遠ざかった所で、甘えるように喬司に枝垂れかかる。 「前から聞こうと思っていたのですが麟那、貴女は私の事をどう思っているのですか?」 「そうねぇ…………カサノヴァ」 「ははっ、これは手厳しい」  その質問に、大した意味は込められていなかったのだろう。酔いが回ってきている私の適当な答えに、喬司はペチと掌を額にあてて新月の空を仰ぎ笑った。  * 「ねぇ鈴那。何時までむくれているの?」
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