「痴漢」「卑猥」「通勤」

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「この人痴漢です!」  ……取り敢えずこれが今月三件目ぐらいの痴漢冤罪であることに少し苛立ちを覚えてもいいのではないだろうか。きっと駅員も苦笑いだ。一見して大人しそう、片手がカバンを持って下になっている、文庫本を構えて周囲に意識を飛ばしていない。この三点を鑑みれば、成る程確かに冤罪に巻き込んだり果ては示談を強要したりが出来ると思うのだろう。  だが残念ながら、その掴んでいる手に持ってる鞄は……というかキャリーカートはどう頑張っても「掌を押し付けられる構造ではない」。当然、持ち上げられる重量でもない。  善意の第三者とか言う鬼畜野郎が背後から掴みかかろうとしたが、女性の手を振り払った流れでそちらにキャリーを向けただけで脛を痛打、うずくまるなら最初から来なければよいだろうに。  所詮はええかっこしいの優男である。 「……別に僕が痴漢ってことでもいいんですけどね? この両手で痴漢できるような理屈とか道具とかギミックとか教えて下さいよ。次から対策しますから」  そして参考にしますから、とまでは言わなかった。もっとややこしくなるのだけは勘弁願いたい。 「無いですか? 無いでしょうね。これ以上時間かけたくないので、失礼します。丁度降車駅ですしね」  では、とキャリーをひきずって出て行く自分を呆然と眺める女性の大腿部にわずかに視線を向け、結局「そういうこと」じゃないか、と呆れるのはいつものこと。  これから職場に行くというタイミングで、満員電車でそれは面倒なのでやめて欲しいくらいである。  訳知り顔の駅員がこちらを見た気がするが無視する。  携帯へと着信を向ける相手もいつものことだが無視したい。 「……はい」 『また遅刻ですか先生? もう今月三回目じゃないですか! いくらなんでも〆切押してるんですから勘弁して下さいよ!』 「知らんよ。僕だって被害者だ」 『先生の顔が悪い』 「アシスタントとしてそれはどうなんだ」  ……全く、本当に。『痴漢ネタ専門の三流小説家兼漫画原作者』などという地位が公になっていたら、冤罪では済まなかった気もするのだが。
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